水は善く万物を利して而も争わず。
再婚していきなり3歳児の父親になりました。
目標とか課題とかを設定しないでただ生活を回すだけっていうのが苦手な上、構造化されてないとモヤモヤしてしまう性質なので、漠然と頭の中にあった子どもを育てていく上で気をつけていきたいことをまとめました。
いまはこう思ってるけど、状況にあわせて考え方が変わるかもしれないし、なにかつまずいたり困ったり悩んだりしたときに初心に戻れるように。
しなやかな人間に育ってほしい
まずは、子どもには、しなやかに生きてほしいと考えている。つまり、あらゆる事態を受容して適切に対処することができる人間になってほしいと願っている。今風にいうと、レジリエンスの高い人間、ってとこか。
中学生のときに老荘思想にハマって、読書感想文にも「水のように生きていきたい」みたいなことを書いたことがある。水は誰にでも分け隔てなく、自然に流されているけど力強く流れている。そんな風に生きていきたい、みたいな論旨だったと記憶している。妻がこないだ「くらげになりたい」と言っていて、よくよく話を聞いたら同じようなことを考えてた。
そして、「あらゆる事態を受容して適切に対処することができる人間」を、次の要素を満たす人間と定義したい。
- 複数の選択肢をもった上でもっとも確からしい解を選択できる人間
- 自分の選択をセルフチェックし、必要に応じて軌道修正できる人間
複数の選択肢をもつために
選択の幅を広げるためには幅広い視野を身につける必要がある。幅広い視野を身につけるということは、教養を深めると言い換えることができるだろう。今年度から立命館アジア太平洋大学の学長に就任した元ライフネット生命代表取締役会長兼CEOの出口治明氏曰く、教養を身につけるためには「人に会う」「旅をする」「本を読む」しかない、とのこと。積極的に人に会いに行ったり、あちこちに出かけたり、絵本を読みきかせしたりしたい。
確からしい解を選択できるようにするために
選択の幅を広げることの重要性はたびたび指摘されるけど、無駄に選択肢が多いと当人は混乱して、なんでもできるけどなんにもできない人になっちゃう。これについてはおれもずっと悩んでたし、妻も共感している。
(満男)何のために勉強するのかな?
(寅さん)人間、長い間生きてりゃいろんな事にぶつかるだろう。そんな時、俺みてえに勉強してないヤツは、振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがない。ところが、勉強したヤツは自分の頭で、きちんと筋道を立てて、「はて、こういう時はどうしたらいいかな?」 と考える事が出来るんだ。
寅さんの言うように、適切な選択のためには勉強して「学力」を身につけるしかない。ちなみに、「学力」というと知識・技能だけをイメージしがちだけど、それだけではない*1。「学力」という概念は、学力の三要素として「基礎的な知識・技能」「思考力・判断力・表現力等の能力」「主体性・多様性・協働性」と学校教育法で定義されている(学校教育法 第三十条2)。Society 5.0を生き抜く人材として、しっかり勉強してもらいたい。ただ、苦行として課題をこなすのではなく、楽しみながら勉強できるような環境は用意してあげたい。『勉強の哲学』を改めて読み直してみよう。
軌道修正できるようにするために
自分の選択が常に正しいとは限らない、という前提が必要。決して無謬主義に陥ってはならない。正解ではなく、「確からしい解」の選択であるというのがポイント。目の前のカードのなかから良さそうなものを、適切なタイミングで選ぶことができればいい。自分のミスがミスであることを認められるように、選択ミスは積極的に認めていきたいが、どうしてそうなったのかについては一緒に考えたい。決して、「努力が足りない」みたいなネオリベ的自己責任論に陥らないようにしたい。
なにをやるか
社会との接点、という観点から、「ルール」について教材として取り上げることを検討していて、発達段階に応じたゴールを設定している。
未就学 | ルールがあることを理解する |
初等教育 | ルールを守らなくてはいけないことを理解する |
中等教育 | なぜルールがあるのかを理解する |
高等教育 | 必要に応じてルールを修正したりつくったりしなくてはいけないことを理解する |
自分が子どものころ、「やっていいことと悪いことの区別もできないのか」とよく怒られたんだけど、
- 「わからない」と回答 → なんでわからないのか、と怒られる
- 「わかる」と回答 → わかっててなんでやるのか、と怒られる
こんなの、ぜんぜん教育的じゃない。ぶっちゃけ、「善悪」みたいなのは、いまでもわからない(「好き嫌い」ならわかる)。同じ理屈で「普通」とか「常識」とかもわからない(「多くの人」ならなんとなくわかる)。
価値判断はそれぞれ。
だけど、ルールはある。ルールが何のためにあるのかについては中学生くらいになったら対話をはじめようと考えてるけど、とりいそぎ、おまわりさんは「悪い人を捕まえる人」ではなく「ルールを守っていない人を捕まえる人」と教えている。
どうやるか
先回りしすぎない、ということを心掛けたい(ただし、生命を脅かす危険が迫ったとき、明らかな悪意が感じられたとき、他人に迷惑をかけそうなときは除く)。転んだら起き上ればいい。痛かったらつぎは痛くないようにすればいい。すべての経験は経験だ。先回りして注意すると、注意したことが守られなかったときに「ほーらね」ってなっちゃう。これじゃあ自己肯定感が低下してしまう。理想は、転んで痛かったことを受容・共感した上で、つぎに回避するためにどうすればいいか一緒に考えることだ。カウンセリングマインド。この理想を叶えるためには、こっちに余裕がなくちゃいけない。余裕がないときにはつい最短の手続きをとりがちで、こういう遠回りができなくなっちゃう。余裕を保つためには、時間とか体力とかみたいな有限のリソースを適切に配分する必要がある。とりいそぎ、育児休業と在宅勤務は積極的に活用したい。働き方改革。
さいごに
親としての希望をつらつらと書いたけど、子どもがこうなってくれても、ならなくてもいい。ただひとつだけのマストな願いは、親より長生きしてほしい。それだけ。そしておれはというと、ベストな親じゃないかもしれないけど、グッドイナフな親でいたい。
冒頭の繰り返しになるけど、いまはこう思ってるけど、状況にあわせて考え方が変わるかもしれないし、なにかつまずいたり困ったり悩んだりしたときにこれを読み返して初心を思い出したい。
*1:「AだけではなくBも」であって、「AよりもB」「AではなくB」ではないことには注意されたい