「努力」考 - ネオリベラリズムと自己責任論、教育の敗北、そして「自分らしく自由に生きていく」

どうもロスジェネ世代です。大学院重点化、高学歴ワーキングプアー、ブラックIT企業、奨学金返済滞納、非正規雇用、任期付き研究職、等々、ロスジェネならではのいろんなことを経験しながら生きながらえてきた、歩く社会問題です。で、こちらのまとめにコメントしたら予想外にたくさんのスターをいただいたので、みなさん思うところが多少なりともあるのかと。

「ロスジェネ世代? 社会が悪い? 報われないのはお前の努力が足りないからだ!」と言われたら、貴方はどう反応しますか? - Togetter

任意整理、という国の制度にすっかりお世話になってるけど、そういう救済をも否定しちゃってるよね。こういうの見ると、教育の敗北だ、と思う。

2017/12/23 19:46

b.hatena.ne.jp

おれのコメントもかなり言葉足らずだったので、改めてちゃんと書きます(長文)。すべての「自分の成功は自分の努力の賜物だ」と思っている人へ。

 

個人と社会のダイコトミー

件のまとめをみると、「個人の努力不足」と「社会環境の未整備」という単純な二項対立構造(ダイコトミー)になっちゃってる。たいてい、ダイコトミーには落としどころがあって、その議論がないと先に進まない。このケースの場合、そこそこの能力、そこそこの努力、そこそこの環境があれば、そこそこの生活ができることが必要、というのが落としどころかと。というか、knt(黒猫亭) (@chronekotei)氏ほかの主張はそうなんだけど、どうやらそれが眞三喜 a.k.a. RERA (@rera_masaki)氏に伝わってない。「能力」「努力」「環境」のバランスが大切で、そのバランスがいまの政治によって崩れちゃってるよ、というお話。


努力することはなぜ大切なのか(原因帰属理論)

原因帰属理論はある結果がどのような原因によって生じたものなのか(帰属)を統制-安定性の軸で説明しようとする理論で、2軸でつくられる4象限にそれぞれ「能力」「努力」「課題難易度」「運」を配置したもの。

統制/安定性 安定 不安定
内的統制 能力 努力
外的統制 課題難易度

まず統制の軸。内的統制と外的統制があって、内的統制は自分で変えられるもの、外的統制は自分で変えられないもの。「能力」「努力」は内的統制、「課題難易度」「運」は外的統制。次に安定性の軸。安定は変動しにくいもの、不安定は変動しやすいもの、と捉えると分かりやすい。「能力」は変動しにくいのに対し、「努力」は変動しやすい。自分で変えられる(内的統制)、かつ変えやすい(不安定な)変数は「努力」ということになる。つまり、原因を「努力」に帰属させることは、次の行動変容と親和性が高い。だから、努力することは大事、努力しましょう、はきわめて正論。しかし、次のふたつのケースを考えてみよう。

「とことん」「がむしゃら」に潜む弊害(生存バイアスと学習性無気力)

ケース1「努力した。だから結果が出た。」

「努力すれば報われる」「おれは努力した」「だからみんな努力しようぜ!」

気持ちはちょうわかる。でもこれは、ほかの方からも指摘されているように、「生存バイアス」と命名されている。まず、努力の仕方と量(努力のベクトル)が、たまたま適切だった可能性がある。または、努力について適切な仕方と量についての知識をたまたま得ることができていた可能性もある。つまり、外的な「運」や「課題難易度」といった「環境」が作用している可能性がある。もしかするとそれは家庭環境(親に感謝!)にかもしれないし、教育環境(先生に感謝!)だったかもしれない。そういう外的な要因が得られていることに対する無自覚こそが、生存バイアスだ。ちなみにこのケースでおれが指摘したのは、「任意整理」という制度によって努力できる環境が整っていた(日本に感謝!)ということ。さらに「生存バイアス(成功したのは努力のおかげ)」に「同調圧力(自分も努力したからお前も努力しろ)」が加わってるからややこしい。

ケース2「努力した。だけど結果が出ない。」

「努力したって無駄じゃん」「努力なんてやめちゃおう」

これにも「学習性無気力」という名前がついてる。強化学習において、適切な報酬がなければ行動は消去される。学習性無気力が生じるほど努力した人は、本当に「とことん」「がむしゃら」に努力してないのか?努力の仕方が悪いだけなのか?努力の量が足りないだけなのか?個人的な責任だけに帰属さるのか?そもそも、本当に「とことん」「がむしゃら」に努力しないといけないのか?
翻って、雇用問題、待機児童問題、教育格差問題みたいな個人の生活に密接に関わる社会的課題はすべて個人の努力だけで解決できるのか?または、個人の努力だけで解決すべき課題なのか?議論の出発がこの視点・水準だったのに、個人の経験を過度に一般化したことによって議論がすれ違っちゃってる。議論が矮小化された結果として陥ってしまったのが、「努力したからといって必ず報われるとは限らない」「それは努力が足りないだけ」の無限ループ。このやりとりには反証可能性がない。こんな議論、いつまでしても無駄なだけ。

努力についての3つの前提

  1. 努力しようと思えば努力できる環境が手に入る状態を維持しておくのは国家のすべきこと。
  2. そして、ある程度の努力をすればある程度の見返りが得られるような社会を維持しておくのも国家のすべきこと。
  3. さらに言うと、努力しなかったからといって基本的な人権が損なわれないように維持しておくのも国家のすべきこと。

前提って書いたけど、前提というより、イデオロギーに近いかもしれない。これらは、報われなかった人がかわいそう、とか、そういう感情的な問題ではなくて、社会全体の維持・向上のために必要なシステム。情けは人のためならず。この点について、 眞三喜 a.k.a. RERA (@rera_masaki)氏は「社会主義」「共産主義」と指摘してるけど、それはあまりにも理解が足りてない。保守であり、リベラルであります(©枝野幸男)。

ネオリベラリズムによる過度な競争と、そこから生じる分断と敵対

新自由主義ネオリベラリズム):自己責任を基本に小さな政府を推進し、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、グローバル化を前提とした経済政策、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの経済政策の体系(Wikipediaより)

適切なルールが設定されているとしたら、そこでの競争への敗北は、たしかに自己責任なのかもしれない。そして、競争は勝者と敗者を分断する。ゼロサムゲームなのだ。だれかが勝つ、ということは、だれかが負ける、ということなのだ。ただ、適切なルールが設定されている適切な競争であれば、このゲームには、勝ったり負けたりできるはずだ。

競争のためには、等しい環境が与えられている、という前提が了解されていなければならない。この前提が成立している状態において、競争原理は正しい。等しい環境を設定するためにルールがあって、ルールの中で公正なゲームをしよう and/or させようとしてるそのルールを、どの水準で、どの規模で、どの分野で、どのように策定するのか、というのが政治なのであって、マスメディアによるニュースからは、だれがどの政党でどのくらいの票とカネを集めて失言して不倫した、みたいなことしか伝わってこないけど、こういうのを伝えてほしい。そして、まず議論すべきポイントは、適切なルールが設定されているかどうか、だ。国民は失言とか不倫とかじゃなくて、この機能をチェックしなくちゃいけない。

だが実際はどうだろう。いまの社会で挽回のチャンスがどれほどあるか?挽回できるケースとできないケースは個人の努力だけで説明ができるのか?挽回できなくなったとき、自己責任というだけで切り捨ててしまって良いのか?

固定化された社会階層は何をもたらすか。経済活動の停滞、科学力・技術力の地盤沈下、治安の悪化、つまり国力の低下だ。

そして勝者と敗者に分断された後に必ずやってくるのが敵対だ。自分は勝っている、と思い込むこと。勝者を自認する人間が敗者認定した人間に対して、負け犬の遠吠え、と放言すること。そこから得られるものってなんだろう。おそらくわずかな自己肯定感だけだ。競争力は逆に低下する。敵対からは何も生まれない。

教育は敗北したのか

新自由主義イデオロギーの基に、 眞三喜 a.k.a. RERA (@rera_masaki)氏は適切に教育を受け、理解し、それに則って生活をし、さらにそれを啓蒙しているのだ。なんという教育効果!

これはおれがずっと考えていること。ちょっと前に、前川前文部科学事務次官が「ネトウヨは教育の失敗」と述べたことが話題になったけど、自己肯定感云々は置いておいて、おれが感じている「教育の敗北」とはこういう「必要に応じてルールを代えたり作ったり」するための思考力が涵養されているか、という意味。「大学時代に資格を取得したからいま食えてるのは自分の努力のおかげ!(意訳)」という発言には、高等教育のいろんな問題をはらんでいて、文系不要論、専門職大学、高等教育無償化、の議論に繋がる。高等教育とは何か、高等教育はどうあるべきか、もっと真剣に議論しなくちゃいけない。「役に立つ」学問とはどういうことを含意するのか。「役に立たない」学問は本当に役に立たないのか。プラトンの国家論、高度専門職養成とリベラルアーツフンボルト理念、あたりがキーワードになるかと思うんだけど、これはまた別の機会に。

自分らしく自由に生きていく(結論に代えて)

童貞弄りで批判されまくっている某女史の言葉ではないが、「自分らしく自由に生きていく」とはどういうことなのかについてずっと考えている。たぶんおれは、努力や結果は大切だけど、努力や結果だけがすべてではない、という方向に持っていきたいんだと思う。結果は結果だけど、みんながみんな目標達成型でいる必要もない。努力はとても尊いものだけれども、努力というひとつの軸だけで評価されるべきものでもない。

自分らしくあるとはどういうことなのか。自分とは何なのか。自由とは何なのか。自由でありたい、という願望から自由になれるのか。他人の自由に対してどこまで寛容になれるのか。「みんなちがってみんないい」は「みんなちがってみんないい」と思わない人とどう向き合うのか。「行き遅れ」と言われて激昂する人がなぜ「童貞を弄ってもいい」と思うのか。なぜ戦争が起きるのか。ここでうまいこと考えて結論ぽいことを言えれば売文業で食っていけるかもしれないんだけど、あいにくまだまだ結論が出そうにない。先延ばし病。でも、そういうことをずっと考え続けて、死ぬ間際に、やっぱりわかんねーなーって言いながら死んでいきたい。

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